私の人生を変えるかもしれない、と思った。



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        「よぅ」

         短い言葉で再会の挨拶をしたのは、数ヶ月前まで行動を共にしていた男だった。

        「伊達? どうしてここに?」

         飛燕は予定していなかった来訪者に駆け寄った。
         数ヶ月前、師が病に倒れたと聞き及び単身寺に戻ったのだ。故にこの男は、月光や雷 電と共にずっと離れた庵に居る筈なのだ、なのに。
         数ヶ月前に見たままの姿で、伊達が目の前に立っている。
         見る限り、荷物はなし。
         着古した闘着のまま、まるで思い立ってそのままやって来た、そんな風だ。

        「とりあえず、中へ入れろ」

         突っ立ったまま眺め回されるのが気に障ったのか、伊達が眉間に皺を寄せて言った。





         人の居ない堂へ案内し、板の間に上がらせる。
         説法の際に使われるこの堂は小さな庭を裏手に配してあり、考え事をする時などは重 宝しているのだ。

        「どうぞ」

         温かい茶器を膝元へ寄せると、伊達が訝しげに視線を寄越した。

        「用意が良すぎるじゃねぇか?」

         磨かれた板の間に木漏れ日が落ち、世俗から隔離されたような静けさがここにはある。
         それを楽しみながら、飛燕は口元を緩めた。

        「丁度、茶を飲もうと思っていたんですよ」

         師の容態は良くない。
         疲れを覚えて、一息入れようと思って。
         貴方に、会いたいと思った。

        「ここで、こうして」

         用意した茶器は二人分。
         いつもはしない可笑しな賭けを、したつもりだった。
                 予定にない来訪者が、来るかどうか。
         来たらどうかなど考えていなかったけれど。
         茶器に口をつける男を見られて満足だ。

        「可笑しな奴だな」

         追求を諦めたのか、伊達の口元も僅かに緩んでいる。
         茶器からくゆる湯気が生き物のように緩やかな風になびいて、飛燕はそれを目で追っ た。
         日に日に逞しくなるこの男は、何処へ行くのだろう?
         何を求めるのだろう?

         ふと、雨の香りを感じて伊達にそう言うと、そう言われればと返された。

        「良かったですね。ここに着く前に降らないで」
        「まぁ、雨ってやつはこっちの都合は考えないからな」

         濡れるのは別に嫌いじゃないが、と続ける伊達に、飛燕は苦笑した。

        「雲の上にいる雨師は雲路を自由に行き来して、思うまま雨を降らせますからね。足元の 小さな私達のことなど、見てはいないのでしょう」
        「雨師?」
        「雨の神様ですよ。風の風伯とまとめて師伯、と」
        「面白い考え方だ」

         今にも降りそうに垂れ込めてきた暗い雲を見上げて、今度は伊達が苦笑した。

        「神なんてものは信じやしないが、そんな奴なら確かに、気ままそうだからな。雨の降ら せ方も、そいつら次第か」
        「今降るなら、どんな雨がいいですか」

         自らに入れた茶の温かさを堪能しながら、飛燕は笑みを浮べてみる。
         この静寂を壊さない、草木を優しく潤すような、そんな雨。
         耳に心地良い、貴方の声を、掻き消したりしないよう。

        「そうだな

         伊達はそう口にしたが、思案している風ではなかった。
         雨香が強くなった気がして茶器から顔を上げると、体二つ分ほどの距離が、一気に縮め られる。
         間近に迫った男の静かな視線に、普段とは違うものを感じて後ずさろうとして上手くい かず、飛燕は誘導されるかのように自然と背中が床板に触          れるのを感じていた。

        「伊達?」

         名を呼ぶのが精一杯で、飛燕はただ伊達を見上げた。
         視線が絡む。
         己を丸ごと呑み込んでしまいそうな、深い眼差しがそこにあった。

         彼が来た理由は、何だったろう。
         こんな場所までやって来て。
         もうそんなこと全て、どうでもいい。

        「飛燕」

         ただ一言だけ、名を呼ばれた。
         今まで聞いた中で一番印象に残る声で。

         この声が聴きたかったのかもしれない。
         耳の端で聞こえ始めた雨音が柔らかく空気を湿らせて、眼前にある黒い瞳までまるで 濡れているよう。
         普段は隠されている優しい光が、手の届く位置にある。

         熱に浮かされたように頬が熱いのと、背中の冷たさを感じながら、飛燕は近付いてくる 唇を受け止めた。





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