Paparazzi

       

       宵闇の降りた高層階、夜景の見えるホテルのバー、目の前には乾杯用のシャンパン。
       「呼び付けるとは何事だ?」
       三つ揃えのスーツ、頬の傷は隠れないが、鋭い漆黒の瞳を遮るサングラス。
       飛燕は伊達がサングラスをしてきてくれて良かったと、なんとなく思った。
       「総長、そう言わずに、まずは乾杯しましょう?」
       長めの髪をさらり、と肩に流し、飛燕は小首を傾げてみせる。
       「一体何に乾杯するってんだ?」
       「・・・貴方と貴方の組織のさらなる発展を祈って。」
       「ふン。なんだ、それは?」
       そう言いつつも、二人はグラスを上げた。
       上等のグラスが合わさる音。
       良く冷えたシャンパンは甘くなく、炭酸の刺激が程良く喉を通る。
       窓からの夜景を見る飛燕の身体から、伊達は消毒薬の匂いを感じた。
       仕事明けなのがよくわかる。
       どこか、遠くを見る碧の目。
       いくら歳を重ねても美しいまま、そこだけ時間が止まったかのようだ。
       堅気と極道、進む道は違えてしまったが、まだこうして会うことができる。
       理由もなく呼び出されたが、その美しい横顔を見ることができただけでも良しとしよう、と伊達は思った。
       「・・・久し振り、ですよね?」
       ふ、と飛燕が小さな声で聞いた。
       「そうか?」
       伊達の手には既に2杯目グラス。
       ロックで何を飲んでいるのだろう?
       飛燕にはもうそんなことさえわからない。
       昔は・・・彼の事ならなんでも知っていた。
       最初、何を飲んで次に何を飲むのか。
       何をどれくらい飲んだら、どんな風に酔うのか。
       事細かに知っていた。
       今は・・・知らない。
       少しだけ残っていたシャンパンを飲み干す。
       自分が忙しいのもあった。
       毎日オペで、帰宅すると深夜。倒れ込むように眠った。
       起きればまた仕事。
       留守電の点滅に気付いても、週末までどうにもできない日々があった。
       聞いても、早朝、深夜では連絡の取りようもない。
       そのうち、留守電にしなくなった。
       ・・・随分昔のことだけれども。
       薄っすら笑った飛燕の口元を伊達が見逃そうはずがない。
       「・・・何、思い出してんだ?」
       サングラスを絶妙のタイミングではずして、視線を向けてくる。
       敵わない。
       飛燕は2杯目をオーダーしてから、その視線を受け止めた。
       「前回、会ったのはいつだったかなって。覚えておいでですか?」
       むっとした顔で伊達が答える。
       「当然だ。3か月前の今日。お前の家に行った。」
       「あれは・・・連絡を下さらなかったから、お待たせしてしまいました。掃除も行きとどかず、大変失礼をしました。」
       伊達は首を捻る。
       「いつも通りキレイにしてたじゃねぇか。冷蔵庫の中だって整理されてて、きちんと俺の飲む物だって用意されていた。」
       それでも飛燕には納得がいかない。
       完璧に迎えたいのだ。
       ・・・きっとどこでも、そうされている。
       最上級のもてなしを用意した、最上級の女達に迎えられているはず。
       飛燕は唇を噛んだ。
       もう妬いたりしない、と思っていた。
       伊達が天辺に立ったからには、自分は日蔭の身、それを貫こうと思った。
       本宅に迎える、と言われたこともあるが、固辞した。
       自分も一人の男として、地位ある立場についた。
       自分の足で歩いて行こう、と決めた。
       それでいて、そうと決めた今も、比べてしまうのか?妬いてしまうのか?
       す、と目の前に手が出てきて驚いた。
       大きくも器用な指が、飛燕の唇に触れる。
       「何、唇噛んでんだよ。お前、泣きそうな顔してるぞ?何があったんだ?」
       人目も気にせず、親指を唇に
       乗せたまま、人差指で飛燕の小さい顎を上げて顔を合わせさせる。
       「総長・・・こんなところを誰かに見られたら!」
       小さい声で抗議して、目を逸らしても、伊達が許そうはずがない。
       「言うまで放さん。それを知らんお前とも思えんが?」
       あぁ・・・こういうところは変わらない。
       「お見限り、だったので・・・ご無礼とは思いつつお電話差し上げた次第です。」
       頬を染めてそう言えば、力の入りかかった手は離された。
       「お前なぁ・・・いつでも本宅の方に来いと言ってあるだろう?すぐに俺に連絡が入るようになっている。
       何を遠慮して、こんなことを仕出かす?」
       そう、そうなのだ。
       いくら飛燕が忙しかろうと、上に行けば行くほど、伊達はマメになっていく。
       電話をかけてくる、とかメールが来る、などではない。
       花、であったり、珍しい食べ物であったり、装飾品だったり、上手いこと患者を装って職場へつけ届けられる。
       笑ってしまったのは、菓子箱の下に装飾品が入っていたことだ。
       これでは、時代劇の悪徳商人である。
       でも、考え直した。
       職場に怪しまれないように、菓子は皆に配り、プレゼント、というには照れ臭い代物だけを
       受け取ることが出来るように、気配りをしてくれているのだ。
       面と向かって渡すと、伊達自身が照れ臭いのもあるだろう。
       顔を見ずとも飛燕でさえ照れ臭いのであるから。
       しかし、身に付けることもできない装飾品の数々が増えていく一方だ。
       ネクタイピンやカフスボタンはともかく、指輪、ネックレス、ブレスレット、サイズは間違っていないが
       、明らかに女物だ。
       『まとめて買ったのか?』と邪推もしてしまうが、一度、鑑定をしてもらったことがある。
       掛け値なしに最上級品で、こんなクラスのものはそうそう出ない、とのこと。
       だとすると、そんなものをいくつも売っているはずがない。
       それを思うと、一番いいモノが飛燕の元に来ているに違いない。
       有難いのだが・・・つける場所もなければ、似合いもしないだろう。
       若い頃ならともかく、飛燕は歳をとった、と自覚している。
       睡眠不足は肌に出るし、髪も随分短くしてしまった。
       伊達が長い髪を好む、ということを知っていても、知っているからこそ、短くした、と言っても過言ではない。
       自分に対する執着を、少しでも薄くしたくて。
       でも、内心は今すぐにでも抱きつきたいほど・・・愛しい。
       それは、もう流石にできない。
       お互い立場ある大人の男。
       震えるほど好きでも、どうしようもない。
       「飛燕・・・飛燕?」
       伊達の呼ぶ声で我に返った。
       「んっとに・・・お前、今日、どうかしてるぜ?」
       「ふふ・・・3か月前を思い出していました。待っていて下さって、本当に嬉しかった。
       有り合わせの中華料理に、なぜか日本酒。まるで学生時代でした。」
       「・・・まさか同僚が一緒だとは思いもしなかったがな。」
       「よく言いますね。睨みつけて追い返したのはどなたでしたっけ?
       ウチの医局員、いじめないで下さいませ。ただ文献を借りに来ただけだったのに。」
       「ふン。どうだかな。」
       内ポケットから煙草を出し、口に銜える。
       飛燕は目の前の灰皿に添えてあったマッチを擦り、差し出した。
       「・・・お前はそんなことしなくていいんだ。」
       伊達は眉を寄せるが、大人しく顔を近付けた。
       近くで見るその顔は、ぞっとするほど色っぽかった。
       酒でなく、大人の男の色香に酔いそうだ。
       「ふふ・・・こんなおじさんに妬いて下さるんですか?」
       「馬鹿言え、あの同僚とやら、お前を見る目が違ったぞ?随分若いだろう?
       いくつくらいなんだ?」
       「あの時お聞きになればよかったのに、今になって、ですか?」
       マッチを振って消し、灰皿に置く。
       目を逸らさなければ、本当に伊達に酔ってしまいそうだ。
       「あの時詳しく聞いてたら、あいつの命、保証ないぞ。」
       言っていることは物騒なのに、そんな雰囲気は微塵も感じさせない。
       そのミスマッチが恐ろしくもある。
       「言えよ。」
       飛燕は肩をすくめて答える。
       「はいはい。彼は今年入局したばかり、ウチでは新米です。キャリアは3年。30過ぎですよ。
       即戦力が欲しかったから、院長に探してもらいました。
       大学院も出て、論文も素晴らしかったから採用を決めました。手技も問題ありませんし、勉強熱心で、
       私に文献を借りたい、と言ってきたのです・・・偶々、それが家にあったので、車を連ねて戻っただけです。
       来客用の駐車場に、貴方専用のお車があるのを見て、すぐにわかりましたから、駐車場で待て、と言うのに、
       私が上司だから、それは失礼だ、と言って聞かなかっただけです・・・
       あの車、何て言うんです?桃の車に似ていますね?」
       「車はランボルギーニ。桃のとは違う。話の論点がずれている。」
       「・・・もしかして、それで拗ねて3か月もお見限り、だったんですか!?」
       「そんなわけあるか!仕事が忙しかったんだ!放っておいて、持っていかれたらいいツラの皮だろう!?
       ・・・そんなに歳が近いってのは頂けん。いくら相手が歳下だからと言ったところで、
       お前の方が間違いなく歳下に見える。そんなこともわからんのか?」
       「 え? 」
       飛燕は両手を頬にあてる。
       「・・・全くお前という奴は!この3か月の間、あいつに何回誘われた?言ってみろ。
       いや、お前のことだ、自覚はないだろう?」
       飛燕はそのまま宙に目を泳がせ、考えた。
       誘われたのは、同僚、部下だけでない。看護師に薬剤師、医療事務員。
       流石に院長の誘いを断るわけにはいかなかったが、他は断っている。
       「鈍感なお前がそれだけ考えるくらいは誘いがあった、ということだな。俺ももう少し考えんといかんな。」
       伊達は3杯目をオーダーした。
       「・・・それでも、お受けしたのは院長とのディナーだけですよ。」
       「お前、俺を心配させるために呼びつけたのか?」
       苛つきを隠さずに伊達は灰皿に煙草を押し付けた。
       「あ、あの!護衛とかいりませんから!他の方にはお付けになっているでしょう?」
       これは失言だった。
       伊達と関係のある女は全て監視下におかれ、護衛がついている。
       「俺が好きでそんなことをしているとでも思っているのか?勘違いするな。あいつ等は組の仕事を担っているだけだ。
       店を何件か任せただけで、他が俺の女と勘違いする。そりゃ、抱かんとは言わんが、
       それもあいつ等への報酬の一つだ。商才と立ち振舞い、見た目、度胸を兼ね備えた女はそういない。
       俺は仕事でやっているつもりだがな。男以上に稼いで上納入れれば、守ってやらんと嘘だろう?
       同じ構成員だが女、だからな。しかも俺の女と間違えられたら、どんなひどい目に合うかわからん。
       本当なら・・・お前にやってほしい仕事だ。が、お前が引き受けるとは思えん、だからオファーしないだけだ。」
       「・・・私に?ご冗談でしょう?まず第一に中国人である私が構成員になるなんて、無理があります。」
       「話を逸らすな。」
       眼光鋭く伊達が睨む。
       「・・・はっきり、仰ってもらわないと、私にはわかりません。」
       「俺はジゴロでもなんでもない、そんなこと言えるか。」
       そういう伊達はイタリア製のスーツを纏って、ジゴロも顔負けのその名に違わぬ伊達男振り。
       顔の傷さえなければ、誰もが振り返るような野性的な精悍さ。
       「それを仰って頂く為に、お呼びしたのかも。」
       飛燕も負けてはいない。
       自分を取り戻し、スーツ姿が霞むほどの妖艶な笑みを浮かべた。
       男とも女ともしれない魔性の笑み。
       それは背筋が凍るような視線の交叉。
       「じゃあ、お手並み拝見、だな。次はどこへ行くんだ?」
       ふふ・・・と笑った飛燕の顔はやはり美しくて。
       伊達は眩しそうに目を細めた。


       ホテルの正面から出て、既に暗くなった大通りへと足を踏み出す。
       トレンチコートを着てマフラーを巻いた飛燕の腰にさっと手が回る。
       照れもせずこういうことが出来る人になったんだな、と飛燕は思い、
       伊達は飛燕が照れずに逃げなくなったな、と逆に思っている。
       小さい頭を広い肩に乗せ、繁華街のネオンの中を歩く。
       「どこまで行くんだ?」
       耳元で伊達が囁く。
       「すぐ近く、ですよ。部屋を取りました。」
       伊達は少し驚いたようだった。
       「どういう風の吹きまわしだ?積極的だな。」
       今まで飛燕からそういう行動を起こしたことはない。
       「驚かれますか?ではもっと驚かせて差し上げます。」
       人が行き交う広い歩道、ガードレールまで伊達を腰でゆっくり押しながら歩いて行く。
       動けぬように、車道間近まで追い詰め、歩みを止めると、ふいに飛燕が上目遣いで見上げてきた。
       泣いている?
       一瞬、伊達の目には飛燕が泣いているように見えた。
       大きな目に涙を溜め、長い睫毛に露を作り・・・
       暗い中だ。繁華街の光の反射が瞳に映ってそう見えたのかもしれない。
       次の一瞬には、もう飛燕の唇しか見えなかった。
       そこで動じる伊達でもない。
       恥をかかせるつもりも毛頭ないし、何より久々に抱く身体は、コート越しでも愛おしい。
       きちんと頬に手をあて、唇を受け止めた。
       震える唇。
       そんなに寒くはないはずであるが、いつものように誰よりも柔らかい唇は、確かに震えていた。
       唇を離し、長めの髪を梳いてやり、問うた。
       「寒いのか?」
       飛燕は下を向いて首を振る。
       「泣いているのか?」
       今度は顔を上げて首を振った。
       まだ長めの髪が、伊達の手に揺れ当たる。
       両手のなかにある小さな顔は、それでも何か辛そうだった。
       辛そうに笑った。
       腰に太い腕を回すと、飛燕を強く抱き寄せた。
       「辛い思いをさせたか?」
       「いいえ・・・そんなこと、ない。」
       涙声の飛燕の顔を確認しても泣いてはいない。
       路上だろうが、どこだろうが、もう関係なかった。
       しっかりと抱き締め、しっかりと唇を重ねる。
       泣いていないはずなのに、口中は塩の味がする。
       泣いているのを隠しているのか?
       伊達は訝かしむが、不審な気配を感じ、唇を重ねたまま、周囲の気配を探った。
       10m先、20m先・・・音の多い繁華街の車道近くとはいえ、気配を拾えない伊達でもない。
       ・・・おかしい。
       不審な気配は確かなのに、それを拾うことが出来ない。
       上、か?
       ビル群に神経を集中させる。
       方向は察知した。
       飛燕を離し、上空を見る。
       「どうしました?やはりお嫌でしたか?」
       拾えそうで拾えない気配は、瞬時に消えた。
       伊達は舌打ちする。
       「なんでもない・・・行くぞ。続きは後だ、覚悟しとけよ。」
       目をそらし、頬を赤らめた飛燕の顔は泣いてはいない。
       全ての据わりの悪さに、伊達の警戒心が働く。
       しかし、道を歩いても尾行されている感じもない。
       目的地についても、張られている様子もない。
       一体・・・どういうことなのか?

       目的地はそう離れた場所ではない、これも一流ホテルで、伊達の顔くらいは割れているだろう。
       まず、顔の傷は隠せるものではない。
       が、一応サングラスだけはかけて、チェックインする飛燕を見ていた。
       「行きましょう。」
       ホテルの部屋には既に飛燕の荷物が届けられていた。
       どうやらここから出勤するらしい。
       「随分、手回しがいいな。」
       部屋に入り、伊達の手には既に火のついた煙草が握られている。
       「総長、お食事はどうなさいます?部屋で取りますか?尤も、何か気に入るものがあれば、でございますが・・・」
       「当然、部屋でメインディッシュを食べるに決まっている。オーダーは必要か?」
       飛燕が灰皿を手渡しながら、首を傾げた。
       「・・・相変わらず、最高に鈍感だな。」
       灰皿を持ってベッドルームの方へと行ってしまう伊達を追いかけ、聞き返す。
       「鈍感?私がですか?それだけでは何が食べたいのかわかりませ・・・ん。」
       言った途端に、飛燕は理解したようだ。
       「ほう、オーダーしなくても出てきそうだな。前言撤回、だ。」
       銜え煙草のまま、灰皿を持ったままの伊達に抱え上げられた飛燕は一息つく暇もなく、ベッドルームに連れ去られた。


       眠る伊達を見るのは本当に久しぶりだ。
       もう何年ぶりだろうか?
       いつも飛燕の方が早寝で、飛燕が目を覚ますと、目が合うことが多かった。
       一体、いつ寝ているのか、と不思議に思ったこともある。
       特にひどくなったのは卒業してからだ。
       飛燕が起き出すと、まるで交代するかのように寝てしまう。
       学校や仕事の準備があるので、眠る伊達を見ていることはできなかったし、
       「いってきます」の声には反応して、布団の上に身を起こし、
       ハグしたり、キスしたり、と中々家をだしてもらえなかった覚えがある。
       一緒に暮らしていた頃の懐かしい思い出。
       若かりし頃の懐かしい思い出。
       別々に暮らし始めたのは、伊達が邸宅を構えてからだ。
       飛燕が身を引いた、というのが正しい。
       関東一円の大親分が小姓付きでは格好がつかない。
       そう思った。
       一人暮らしを始め、仕事に打ち込んだ。
       一人でいる寂しさを埋めるため、仕事ばかりしていた。
       待っていなかった、と言えばウソになるが、待ちたくはなかった。
       一人の男として、自分の足で立って歩いていかなければ、と強く思った。
       何を待っていいのかわからなかったのだ。
       伊達が来るのを待つのか?
       それとも伊達が迎えに来るのを待つのか?
       離れてしまえば、伊達との関係の中で自分の立ち位置が、ひどく不安定なものとしてしか感じられなくなっていた。
       家族のようなものと思っていたが、そうではなかった。
       どうしても、そう思えなかった。
       会わない時は、半年近くも会わない。
       会う時は、毎日のように飛燕の家にやってくる。
       それに慣れてしまった。
       いや、慣れさせられた。
       いつも、心の中では待っていた。
       いつしか、何を待っているのかわからなくなってしまったが。
       目の前で眠る、この男が愛しい、ということしか、もうわからない。
       抱かれ、与えられた熱は、離れればすぐに消える。
       あぁ・・・だから、こうするより他に方法は思いつかなかった。
       飛燕は、伊達の身体を一度強く抱き締めた。
       寝てはいるが、抱き返される。
       それだけで、幸せだけれど。
       寝息が安定するのを確認すると、飛燕は身支度を始めた。
       もう、首筋に残った紅い痕を気にすることもない。
       首筋だけではなく、身体中に散った紅い花。
       これが消えるまでには全て、片はついているだろう。
       気配を消して、殺して、暗闇の中、荷物を持った。
       音を立てずにドアを閉め、そこで吐息を漏らした。
       吐息と共に、耐えていた涙が出る。
       「どうぞ・・・貴方の、組の弥栄を・・・」
       聞こえないように呟き、飛燕は足早に去った。

           
         


       出勤してすぐ、院長から呼び出しを受けた。
       計画は上々だ。
       飛燕はデスクの引き出しから白い封筒を取り出し、白衣のポケットに入れた。
       病院内の最上階、院長室の重厚な扉をノックすると、入室を許可された。
       秘書の姿はなかった。
       「呼ばれた理由はわかっているかね?」
       「はい・・・私の考えが間違っていなければ。」
       執務机の前に立った飛燕は挨拶もしない院長をおかしく思ったが、
       きっと驚きのあまり、我を忘れているのだろう、と解釈した。
       おもむろに執務机の上に、雑誌が乗せられた。
       あまりメジャーな雑誌ではない。
       見なくとも、飛燕にはわかっている。
       自分の姿が写っているはずだ。
       「・・・見たまえ、君だ。」
       差し出されたので、仕方なく目を通した。
       極道関係の雑誌。
       白黒の目が粗いスクープ写真。
       路上で抱き合う伊達と飛燕が唇を合わせている。
       「確かに、私です。」
       「この人とはどういう関係かね?」
       「・・・ご覧になった通り、です。」
       飛燕は淡々と答えた。
       絶対に院長が見ない類の雑誌である。
       早朝の出勤間際を狙って、記者が談話を取りに行ったのだろう。
       それも織り込み済みだ。
       「相手を知ってのこと、かね?」
       「えぇ、存じ上げています。関東極漠連、伊達組、組長、伊達臣人氏、です。」
       「これは大変な問題だ。相手もさることながら、君は・・・男性、だ。二重のトラブルを抱えることとなる。
       わかっていて、やったことなのか?それとも無理強いされて・・・」
       「いえ、決してそのようなことはありません。彼とは、伊達氏とは学生時代の同級生ですから。」
       「・・・大変、遺憾だ。」
       飛燕は黙って辞表をデスクの上に置いた。
       「病院にご迷惑はかけたくありません。すぐに副部長に仕事の引き継ぎを致します。
       本日付けで受理をお願い致します。」
       「しかし・・・飛燕部長、君の腕は惜しい。ほとぼりが冷めるまで休暇か出向という形を取ることも、
       私としては考えているのだが・・・」
       「私のような者がいては、この病院のプラスにはなりません。まだ日本では珍しい人種のうちでしょう。」
       「いや、性同一性障害、という可能性もある。診断を受けてみる気は?」
       「ありません。」
       「私の命令だとしても?」
       「そう仰ると思っていました。しかし私も医者の端くれ、科が違うとはいえ文献を読んでいないわけではありません。
       違いますよ。」
       「しかし、専門医となるとまた違う結果が・・・」
       「有難いお申し出ではありますが、やはり、ここには居られません。
       もう一度どこかで修行をやり直したい、と思っています。
       この記事に書かれたこと、私はもう退職しているので、確認のしようがない、とコメントして下さい。
       お世話になりました。」
       飛燕は美しい所作で深く礼をすると、院長室を辞した。

       これで、第一段階は終了。
       話が広まる前に、副部長に申し送りをしなければならない。
       外科医局に戻ると、部長室に副部長を呼び出し、担当患者のカルテを見せ、事細かに説明をする。
       次に、事務仕事の引き継ぎ。
       会議の議事録を渡し、自分の代わりに出席をするよう予定を調整させる。
       この日のために、即戦力の新人を入局させたのだ。
       計画は、時間をかけて練った。
       仕事に支障がでないようなシフト、一人が受け持つ患者の量、オペの量。
       そこまで計算に入れて、申し送りが出来るようにしておいた。
       荷物もほとんど処分してしまっている。
       書籍を箱に詰めると、宛先を見せぬように持ち出し、車に乗せた。
       後の荷物は今着ている白衣と鞄のみ。
       残ったのはPC内の始末。
       メールをHDに移し、削除していく。
       最後に、再インストールをして、職場を後にした。
       デスクの上に一言、お世話になりました、と書き置きを残して。
       最後にまた院長室に顔を出す。
       「院長の御心遣いには本当に感謝しております。ご期待に添えなくて申し訳ありませんでした。」
       「・・・いつでも連絡を待っているぞ。」
       飛燕はそれには返事をせず、最敬礼をすると、今度こそ職場を後にした。
       もう、戻るつもりはなかった。


       途中、箱詰めした書籍を送り、次にマンションの管理会社に鍵を返しに行った。
       退去まで、あと3日の猶予があったが、それも計算のうちだ。
       後は・・・車に乗せたスーツケースを持って飛行機に飛び乗るだけだ。
       車は桃に預かってもらう手筈になっている。
       さぁ・・・急がないと。
       飛燕は腕時計を見て、つい微笑んでしまった。
       伊達に貰ったものだ。
       彼が選んだにしては地味なのは、飛燕が欲しがっていたのを知っていたから。
       たった一回、何の気なしに口に出しただけでも覚えていて、しばらく会えなくなったら、すぐに届いた。
       メッセージもなかったが、そんな一言を覚えていてくれたのが、嬉しかった。
       飛燕とて、買えない値段の物ではなかったのだが、話したその時を思い出し、見るたびに暖かい気持ちになった。
       仕事でピリピリしていても、時計を見ると、クールダウンしたものだ。
       そのメタルのバンドを緩め、車の座席に置いた。
       見る度、思い出してしまうなんて・・・拷問だ。
       飛燕は眉根に皺をよせ、目を細めた。
       涙が出そうになるのを、こらえる。
       運転中に泣くなんて・・・
       こういう時に限って、カーステレオから思い出の曲が流れてくる。
       耐えられず目を擦ると、頬に涙が伝った。
       人生って良く出来ている。
       こんな時に、この曲が流れるなんて。
       路肩に車を止め、少し泣いた。
       溜息をつき涙を拭くと、ハンドルを握り、車を発進させる。
       桃の秘書が車を受け取ってくれる場所まで・・・



       その頃伊達組では執務室で、件の週刊誌を前に若頭が渋い顔をしていた。
       が、対面に座る伊達はいつもの和服姿で変わった様子はない。
       「・・・どうされるおつもりですか?」
       若頭の言葉にも動じることもなく。
       「どうする必要もないだろう?」
       「そうは仰いますが、組長御自身のことは勿論、ドクターのことも考えて下さい。
       いくら発行部数が少ない雑誌とはいえ、特定の個人の判別ができるような写真を撮られているんですよ!?
       御命令下されば、この写真を撮った者、掲載した者、捕らえて参ります。
       或いは名誉棄損で訴える、という方法もございます。」
       伊達は頭から湯気を出さんばかりの若頭の顔を見ることもなく、ぼんやりと煙草などを吸っている。
       「・・・ここに書かれている話、載っている写真、全て本当のことだ。否定する要素がない。」
       「く、組長自ら目を通されたのですか!?」
       「・・・当然だろう?」
       そこでやっと伊達は若頭の顔を見た。
       言葉を失い、目を白黒させる部下を前に、伊達は困った顔をしてみせた。
       「ここまで本当のことを書ける、とは、誰かがリークした、と言うことだ。
       俺でないなら、あと一人しかおらんだろう?」
       短くなった煙草を灰皿で消し、伊達は考えている。
       「これは大変な問題です!否定しない、となると、我が組は勿論、極漠連の方に影響が出ないとも限りません。」
       「そっちの方はお前に任せる。」
       全く焦りの色を見せない伊達に若頭は驚きを隠せない。
       「組長はこの問題について、どうされる・・・」
       「しばらく留守にする。俺自身が、きっちりと落とし前をつけさせる。お前もそれで納得するだろう?」
       「しかし!組長自ら動かれるとは前代未聞。」
       「それだけ重要な案件なんだよ。違うか?」
       「それは・・・」
       口ごもる若頭を見て、伊達はゆるり、と立ち上がった。
       「対外的にも、俺自身が片をつけてくる、と言え。それまではノーコメントだ。
       ・・・余計な動きをすると、お前と言えども容赦はせんぞ。それは他の組でも同じだ。
       よく伝えておけ。」
       執務室に残された若頭は伊達の言葉を反芻する。
       「リーク?組長でないなら・・・!?」

       部屋を出た伊達の行動は早かった。
       私室に戻り、まずは電話の受話器を取り上げ、飛燕の携帯にかけてみる。
       思った通り、「現在使われておりません」とお決まりのアナウンス。
       これを聞いただけで、仕事は退職し、家も引き払っていると思って間違いない。
       すぐに仕事用の和服から、動きやすい私服に着替えた。
       黒シャツにデニム。
       足元には槍を仕込んで。
       目立たない程度の高級車の鍵を選んで取ると、財布に現金を入れ、靴を履き、縁側から飛び出した。
       頭の中で飛燕の思考を読む。
       見事なまでの幕引きだ。
       呼び出したのも、自宅を引き払っているのを悟らせないため。
       まとめた荷物を持ち込んだのも、出勤した足で退職をするため。
       では、車は?
       すぐに処分できるものではない、いや、車を追ってグズグズしていると、飛燕自身が姿を隠してしまうだろう。
       パパラッチさせたのは、飛燕自身。
       伊達を呼び出して、撮影ポイントを与え、相当な遠距離からカメラで狙わせた。
       記事自体も、飛燕が書いたものと思ってまず間違いない。
       カメラマンにはまとまった金額を渡し、既に逃がしているに違いない。
       自分のせいで、他人が命を落とすのを許すような飛燕ではない。
       一体、何が狙いなのか?
       世間に自分の存在を知らしめたかったのか?
       それとも、伊達に対する言下の絶縁状、なのか?
       伊達にはわからなかった。
       良好な関係だと信じて疑わなかった。
       昨日の飛燕の様子は確かにおかしかったが、腕の中で甘える仕草はいつもと同じで、
       可愛らしい声を上げ、伊達の名を呼んだ。声がかすれるほど。
       始めて抱いた時と寸分違わぬ容姿を脳裏に焼き付けさせるのが望みだったのか?
       考えれば考えるほどわからなくなる。
       一体、飛燕はどうしたいのか?

       飛び乗った車は繁華街に向かう。
       情報屋に至急、会わねばならない。
       情報屋、という人種は人に会いたがらないが、今はそういうことを言っている場合ではない。
       日本全国の飛行機、列車、船舶、全ての移動手段をハッキングして、乗客名簿を手に入れなければならない。
       海外に行くのだとしたら、海外に行くのであれば偽名を使っている可能性もある。
       だとしたら偽造屋もあたらなくてはならない。
       とにかく急がなければ、伊達の手の内から飛燕が飛び立って行ってしまう。
       いや・・・もう伊達の手の内にはいなかったのかもしれない。


       空港に到着した。
       次の仕事場は決めていない。
       ほとぼりが冷めたら、また外科医をやるつもりではいる。
       それは新しい出発。
       戦地で医師をするのも悪くない。
       故郷に帰って指導する立場になるのも悪くない。
       飛燕の前途は洋々だ。
       そう信じなければ、自分のやったことが無になってしまう気がする。
       まずは時間をおいて、自分の気持ちの整理をつけなくてはならないだろう。
       心と体を休める場所を目的地としよう。
       青い海、白い雲、全てを忘れさせてくれるような、時間の流れのゆっくりした暖かい場所。
       そういう場所で一番出発が早い飛行機を選ぼう。
       振り返ってはいけない。
       自分で・・・自分で決めたことだから。
       伊達に迷惑をかけない、と、完全に身を引いてしまう、と。
       片道のチケットを受け取り、すぐに搭乗口へと進んだ。
       一度、振り返る。
       愛しい人が名を呼ぶ声が聞こえた気がして。
       瞳が少し潤んだ。
       もう、振り返らない。
       そう決めて飛燕は足を踏み出した。


       伊達が情報屋のドアを蹴破ったのは飛燕が空港に着いた頃だった。
       怯える情報屋を鬼のような形相で睨み、すぐに仕事をさせた。
       いくつものモニタでプログラムが走る。
       「おい、いつ終わるんだ?」
       「そう言うけど、次から次へ新しい便が出るでしょ?どこで切ればいいのさ!?」
       泣きそうになりながら、情報屋は喚く。
       「怖がってねぇで、アタマ使えよ。お前は馬鹿じゃねぇから使ってるんだろう?
       海外行きの便で近いヤツからだ。2時間以内に出る便。国内も同じだ。
       それで駄目なら船舶をあたれ。」
       と、伊達が大きくなりそうな声を押さえつつ、言い終わった時に右側のモニタの動きが止まった。
       「見つかった!本人名義のパスポートを使ってる・・・でも、本当に本人かはここからじゃわからないよ?」
       「あのクソ真面目は、自分のパスポートを使わねぇと次の仕事の時支障がでる、と思いこんでておかしくない。
       これで間違いない。世話になった。礼はする。」
       伊達はモニタに点滅する空港名と便名を見ただけで記憶すると、路駐してあった車に乗りこみ、
       有り得ないスピードで空港へと急いだ。

       『搭乗のご案内を致しております。現在、介助の必要な方、
       3歳以下のお子様連れのお客様を優先してのご案内です。いましばらくお待ちください。』
       アナウンスを聞く間も、飛燕は立ち上がる気にはなれなかった。
       搭乗するのは最後でいい。
       そう思って、どこまでも待っている自分に気がついた。
       決めたはずなのに、何度も振り返って背後を見る。
       泣きそうな顔になったのを飛燕自身、気付こうはずはない。

       空港の前、駐禁覚悟の路駐を決め込み、伊達は走る。
       もう、あと5分もない。
       皆、搭乗していてもおかしくない。
       目で見て確かめた訳ではないが、乗っているのは飛燕だと疑っていない。
       車を駆り、空港へ急ぐ間、伝えていなかった言葉が頭の中で浮かんでは消えた。
       『お前がいたから、ここまで来れた。頂点まで登れた』
       『俺が我儘だった』
       いや、伝えたい言葉はたったひとつでいい。
       「俺にはお前が必要だ。」
       伝えるために伊達は走る。
       飛燕の名を呼びながら。

       離れるのは自然ではない。
       お互い、それは承知していたが・・・
       いつからか、掛け違えたボタンのようにすれ違ってしまっていた。

       飛燕にらしくない行動をとらせたのは伊達自身、それを思うだけでも・・・

       伊達と共に我が身の破滅を選んだのは飛燕自身、それを思うだけでも・・・


       胸が、痛い。


        ★おまけ

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